Vol.101 サイエンスイラストレーター 菊谷詩子さん

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Profile

神奈川県生まれ。東京大学大学院理学系研究科にて修士号を取得後、米カリフォルニア大学サンタクルーズ校へ留学、サイエンスイラストレーションを学ぶ。アメリカ自然史博物館でのインターンを経て、ニューヨークなどで活動。2001年からは日本で、教科書や図鑑、博物館の展示等のイラストを制作している。2002年、ボローニャ国際絵本原画展(ノンフィクション部門)入選。2010年には、絵本「いぬのさんぽ」(福音館書店)を出版。

絵が好き×生物が好き=サイエンスイラストレーター

図鑑や教科書などに載っている動物のイラストを見て、皮膚の質感や毛の一本一本の感触をも感じられるように思ったことはないだろうか。あるいは、動物の骨格、植物の葉脈といった細かな図解に思わず見入った経験がある人もいるだろう。そんなイラストを描く「サイエンスイラストレーター」として活躍しているのが、菊谷詩子さんだ。

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掲載される媒体は、図鑑や教科書のみならず、専門書、研究論文など多岐にわたる。動物や植物、その内部の様子など、依頼者が伝えたい科学的な内容を正確に、油彩、水彩、コンピュータグラフィックなどさまざまな表現方法で描き出す。

「純粋に写実的に描けばいいというものでもなく、研究論文用の標本画であれば、研究者が言葉で表現したい部分をイラストで表現します。この論文では、この凹みが重要だということであれば強調し、それ以外のところはそぎ落として描きます。雑誌なら色合いや構図を華やかにといったように、掲載媒体に合わせて描き方も変えています」

これは天職! 東京大学大学院を休学して渡米

描く内容について情報が少ない場合は、自ら文献や資料を集める。動物園や博物館に行ってスケッチをするなど、作業の大半は下調べに費やされる。動物は自分で実際に解剖して、内部を確認しながら描くこともあるという。

自分で解剖――と聞くと、驚いてしまうが、菊谷さんは東京大学理学部で生物学を専攻した科学者。解剖は基本スキルだ。一方で、美術大学への進学も真剣に考えるほど、幼いころから絵を描くのが得意だった。

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修士課程のとき、科学に特化したイラストレーションのワークショップが大阪で開かれたという新聞記事を読み、すぐにその講師である木村政司氏(日本大学芸術学部教授)に連絡をとった。生物学と絵が重なり合う仕事に、菊谷さんは「これぞ私の天職だ」と感じたという。

博士課程に進むもすぐに休学し、カリフォルニア大学サンタクルーズ校のサイエンス・コミュニケーションプログラムのイラストレーションコースへ。1年間留学して、必要な知識や技術を学んだ。その後、ニューヨークの自然史博物館でインターンとして働き、経験を積む。

「恐竜など絶滅した脊椎動物を調査している研究室に所属し、カメの化石などを描いていました。写真の撮り方、ライトの当て方、学術的な線画の描き方などもとことん学びました。インターンは無給だったのですが、研究室の人たちが面白かったし、雑誌の仕事なども紹介してもらえて、とても充実していました」

展覧会がきっかけで絵本も出版

菊谷さんはインターン終了後、モントレーに移り、生物学の教科書に載せるイラスト制作に携わる。その後、結婚。夫の仕事の関係で、再びアメリカに渡り、ニューヨーク州立大学で研究者のために骨の絵を描いたり、教科書会社や博物館からの依頼を受けたりして、イラストを描き続けた。

2001年、ニューヨークから帰国してからは、仕事を求めていくつか出版社を訪問しているうち、大学の指導教官や知人から教科書の挿絵などの仕事を紹介され、次第に依頼が増えていった。図鑑は数年ごとに改訂されるため、それに合わせて、菊谷さんも忙しくなる。

そんな中、同業の有志と開催したイラストの展覧会が、ある編集者の目に止まり、2010年、絵本『いぬのさんぽ』を出版。飼っていた愛犬をモチーフに描いた作品は、犬の目や表情、しぐさ、毛のつやの表現が巧みで、本当に犬がそばにいるような温かみを感じる。「サイエンスイラストレーションは正確な絵」とのことだが、菊谷さんの絵にはそれを超えた、生物に対する愛があふれている。

「最も楽しいのは色付けのときです。制作工程のほとんどが資料収集で、実際に描く作業をしている時間は2、3割といったところ。色付けはその最終工程になりますが、本当にわくわくする時間です」

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「無理してでもやりたい仕事か」を基準に

仕事を順調に広げていた菊谷さんに大きなターニングポイントが訪れる。2013年、42歳で出産。それまでは、一日中好きなだけ描いているような生活が一変した。もうすぐ3歳のお子さんは保育園に入れなかったため、一時保育や幼児教室を利用したり、母親に世話を頼んだりして仕事時間を確保。子どもと夫がお風呂に入っている細切れ時間に作業することもある。「超」が付く朝型で、午後10時に寝て、午前2時に起き、6時ごろまで仕事をするという生活も続けている。

「子どもはいつ風邪をひくかわからないので、基本的に短納期のものはお断りしています。スケジュールがほぼ埋まっている状態なので、さらに依頼があった場合は、"家族に負担をかけ、自分が無理してでもやりたい仕事かどうか"という観点で判断しています」

フリーランスの場合、一度断ると次の依頼が来ないのではないかという不安がつきまとうものだが、「一度断ってもまた頼まれる人になるためには、それなりのキャリアと実力がないと駄目。ある程度キャリアを積んでから出産したのは、結果的によかったかも」と菊谷さんは話す。

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イラストが生きる 図鑑の"戦国時代"

サイエンスイラストレーターの仕事を広めたいという思いを持ちつつも、今の菊谷さんの目標は、とにかくいいイラストを描いて、仕事を続けていくことだという。わが子を"観察"してスケッチし、「ずいぶん人間らしくなったな、と思うこともある」と語る目は、まぎれもなく科学者のそれだ。

菊谷さんによれば、今は図鑑の"戦国時代"なのだそう。2強といわれていた出版社以外の参入が相次ぎ、さまざまな切り口から見せる図鑑が増えている。正確なサイエンスイラストレーションは、ますます重要な意義を持つ。

書店には子どもを対象としたものだけでなく、大人も楽しめる図鑑が数多く並んでいる。これからは、菊谷さんのようなサイエンスイラストレーターの存在を感じながら、図鑑を隅々まで読むのも一興だ。

ある一日のスケジュール

2:00 起床後、仕事
7:00 子どもと夫、起床
7:30 朝食(夫担当)
8:45 子どもは幼児教室へ
9:00 家事
10:00 仕事
14:30 子どものお迎え。買い物。夕どもまで子供と過ごす
18:00 夕食の準備。夕食
19:30 子どもとお風呂
21:00 子ども就寝
22:00 就寝

ピンチもこれがあればOK! 私の最終兵器

当たり前ですが、眠い時には寝ることです。眠いのを我慢して作業を続けていると、質が落ちる、効率が悪くなる、気分が悪くなる。眠気を感じたら、30分、1時間半と区切って寝る。それができるのは、フリーランスならでは。

Q&A - 自分スタイルの働き方を実現するための5つの質問

これまでで一番印象に残っている仕事は?
インターン時代にイスラエル人研究者から依頼された、ゾウの鼻の断面図を描くという仕事です。資料がなくて困っていたら、ゾウの鼻の輪切りが、ホルマリン漬けでどーんと送られてきました。これにはさすがにびっくりしました
価格設定はどのようにしていますか?
カラーかモノクロか、自分で資料を集める必要があるか、論文などをしっかり読み込む必要があるか、使用範囲などによっても変えています。アメリカにいたころの感覚で価格設定をしていたら「高い」と言われたので、今は少し落としていますが。
アメリカと日本では、職業についてどのような違いがありますか?
アメリカでは、サイエンスイラストレーターという職業が定職として存在し、博物館や研究所などでも求人があります。日本では、名前自体は耳新しいかもしれませんが、理科の教科書や図鑑などの挿絵を描く団体があり、50年以上の歴史があります。古くはシーボルトのお抱え絵師として働いた川原慶賀もこの範疇に入りますね。ただ、日本では基本的に定職には就けない(ポジションがない)のが現実です。
今後、挑戦したいことは?
ずっと人からの依頼でやってきたので、自分から発信するような仕事をしてみたいです。絵本や中学生向けぐらいの科学関係の本などを、編集者さんと共同でつくっていくのも面白そう。もちろん、自分の子どもが喜ぶような絵本をつくれたらうれしいです。
同じような道を目指す人へのアドバイスは?
ほかの人ではなく、自分に仕事が回ってくるには、自分の売り込みポイントをはっきり把握しておくのが大切です。私の場合は、資料収集のための論文を英語で読めるとか、生物学専攻だったというのが、強みだと思います。この職業を志す人から、年に何件か質問や相談を受けることがあるので、フェイスブックに「よくある質問と答え」として掲載していますが、 何より自分でレールを敷いて、そこを歩む決意が必要です。

撮影協力

HOUSE YUIGAHAMA
「家×発見」をテーマにした鎌倉市由比ガ浜にあるコミュニティスペース。ギャラリー、ライブラリー、カフェ、シェアオフィスを併設し、自分らしいライフスタイルを実現するための学びの場として、コラボレーションイベントやセミナーなども定期的に開催中。
http://houseyuigahama.com/
室井佳子

Writer 室井佳子

ライター。地方紙の新聞記者を経て、2007年よりフリーランスに。取材、記事執筆、講演要旨の作成、校正などを請け負っている。関心ごとは、生き方・働き方、生活、教育。学生時代にかじった心理学が心の支え。好きなものは漢字とクジラ! 日本語検定1級。2003年、2009年生まれの2人の男児と夫とともに、富山県に在住。

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Photographer 小林友美

静岡県生まれ。スタジオ勤務を経て上京。2004年よりフリーランスとして活動開始。東京都在住。雑誌、書籍、Webを中心に活動中
http://www.tomomi-kobayashi.net/